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「子育て」という言葉の違和感

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「子育て」という言葉に、なぜか違和感を持ってしまう、私。

皆さんは、どうでしょう。こんなことに疑問を持つこと自体、変わった人間でしょうか。

私は2人の息子(現在10才と6才)を持つ親ですが、一方的な「子育て」をしているという感覚を持った事がありません。これは長男が生まれた瞬間からそうでした。産まれたばかりの赤子から強いメッセージを受け取った感じがしたのです。

 

そんな人間だから「子育て」と言うと、何かシックリこない違和感を覚えてしまう。今回は、そんな話です。

子育てという言葉の違和感

 

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「子育て」いう言葉の違和感

私がこの「子育て」という言葉を、違和感なく受け入れるとしたら「仕方なく大人の立場から大人の行為を現した言葉」という前提を持たせたい。大人を主体とした場合に、子供を育てるから「子育て」ということになる。あくまでも大人主体の言葉、ということは心に留めておいた方が良さそうだ。

 

社会を、人間活動を継続して行く為には、子供と大人の双方が必要になる。どちらかが欠けていても成り立たないだろう。子供がいなければ、社会の存続のしようが無いし、一方、大人がいなければ子孫は残せない上に、社会活動が成り立たない。そういう意味で、子供と大人は、まったく対等な立場だ。それでも子供を育てるから「子育て」。確かに便利な言葉である。

 

「子育て」

この言葉は、子供を主体とした言葉にも出来ると思う。

 

子供を主体にして表現するならば、「親育て」ということになるだろう。親を含む大人の手伝いが無ければ子供が大きくならないのと同じ様に、子供がいなければ大人は精神的に成熟できない、と思うからだ。大人が成熟できて初めて成り立つ社会だろう。

 

赤子は無力か?

 

いや、決して無力ではない。物理的な無力さを頑なに誇示することで、親に難題を浴びせ、その先の成長に導くという圧倒的な力を持っている。赤子が本当に無力ならば、大人の思い通りにできるだろう。しかし、これが思い通りにはいかないのだ。この関係性にどちらかが優位ということは無い。日々を対等に向き合い進んで行く。将来を見据えた最高の切磋琢磨と言えるだろう。

 

特に初産の場合、親にとって最初のインパクトは大きい。妊娠して苦難の長い道のりを経て強烈な痛みと共にゴールに辿り着いた!と喜んだ矢先に、たった今、スタート地点に立ったことを思い知らされる。赤子と親の血と涙の成長物語がここにスタートするのである。ここからの過程で、成長するのは子ばかりでは無い。親も同じだ。

 

これが「子育て」という言葉に持つ、違和感である。

親は「子育て」をしているつもりかも知れないが、その間、子は健気に「親育て」をしているのだ。

 

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言いたいことは何か?

「子育て」という言葉に何の疑問も持たず、その文字通りに受け取ってしまうと、何の面白みも無い一方的な作業の様に聞こえてしまう。もしくは親の思い通りにするのが「子育て」という風に受け止めてもおかしくない。

しかし、そうでは無いと思うのだ。子は子で主体的に「親育て」をしていて、親への教育をしてくれているのである。子供は親へ何かを伝えようとしている。この子供たちの声を聞き逃さない様にしたいものだ。それが「子と親の切磋琢磨」の醍醐味で、人生の面白みなのではないか、と感じている。

 

子供は「親育て」をしている。その様な視点で「子育て」を眺めてみてはどうだろうか。「親育て」の中で発されるメッセージに敏感になれば、何か違う「気づき」が得られるような気がしてならない。

 

おわり

 

 

 

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